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情報資産耐量子暗号中小企業

情報資産の洗い出し、「あと何年守るか」から始めてみる

「情報資産を洗い出してください」。取引先のチェックシートや、セキュリティのガイドラインで必ず出てくる一文です。そして、多くの中小企業で手が止まる一文でもあります。全部を台帳にする時間は、どこにもないからです。

今回は、ちょっと先の話に見える「耐量子暗号」をきっかけに、洗い出しの始め方を紹介してみます。量子コンピュータと聞くと、まだ遠い話に思えるかもしれません。それでも各国はすでに期限を決めて準備を始めていて、その考え方は、いま手が止まっている洗い出しにそのまま使えます。

使うのは、問いを1つだけです。「この情報は、あと何年守る必要があるか」。この問いを入れると、全部をやらなくても、どこから手を付けるべきかが決まります。

※あくまで今回は、「何年守るか」に絞って見てみます。実際には、漏れたときの影響の大きさや狙われやすさ、法令や取引先との契約で求められることなども合わせて、優先度を決めます。

情報にも「鮮度」がある

食べ物の鮮度は、時間がたつほど落ちます。情報も同じです。たとえば今月の見積単価は半年もすれば古くなり、盗まれても攻撃者にとっての価値はすぐに下がります。

ところが、会社の中には何年たっても鮮度が落ちない情報があります。取引先から預かった図面、自社の加工条件やノウハウ、顧客や仕入先の台帳、従業員の個人情報。これらは10年後に漏れても、十分に痛い情報です。

セキュリティで守るべきなのは、「いま大事な情報」だけではありません。「ずっと大事な情報」のほうが、実は危ない。この話を現実のものにしたのが、量子コンピュータです。

耐量子暗号とは、「今盗んで、後で読む」への備え

いまインターネットやメールの通信を守っている暗号の一部(RSAや楕円曲線暗号など、いま広く使われている公開鍵暗号)は、十分に大きな量子コンピュータができれば解けてしまいます。このことは、理論上分かっています。

私も以前、量子コンピューティングを研究する中で、この解き方(ショアのアルゴリズム)に触れてきました。いま実際に解けていないのは、誤りを直しながら大量の量子ビットを動かせる段階に、まだ届いていないからです。ただ、その距離はここ数年で縮まっています(数字は記事の最後に書きました)。

その日がいつ来るかは、誰にも分かりません。ただ、各国はすでに期限を置いて動いています。

  • 2024年8月: 米国立標準技術研究所(NIST)が、量子コンピュータでも解けないように設計された新しい暗号(耐量子暗号、PQC)の標準3つを確定
  • 2025年11月: 日本政府が、政府機関等の耐量子暗号への移行を、原則として2035年までに行うことを目指す方針を公表(ロードマップは2026年度中に作成)
  • 2026年3月: 日本の政府推奨暗号のリスト(CRYPTREC暗号リスト)に、耐量子暗号の鍵共有方式「ML-KEM」が追加
  • 2026年6月: 米国が大統領令で、連邦政府の重要なシステム(高価値資産・影響度の高いシステム)の移行期限を、鍵のやりとりは2030年末、電子署名は2031年末と定める

ここで知っておきたいのが、「今盗んで、後で読む」という攻撃の考え方です。暗号化された通信やデータを今のうちに盗んで保存しておき、量子コンピュータが使えるようになってから読み解く、という手口です。英語では「Harvest Now, Decrypt Later」(HNDL)と呼ばれます。日本政府の中間とりまとめも、保護期間が非常に長い情報などを扱う場合は、このHNDL攻撃を現に直面しているリスクとして、より早い移行も含めて検討することが重要だとしています。

つまり、10年守りたい情報を、10年もたない暗号で送っていると、今日の通信が将来の漏えいになります。逆に言えば、半年で古くなる情報は、この手口を気にする必要はほとんどありません。ここでも役に立つのが「あと何年守るか」という問いです。

耐量子暗号への対応は、中小企業が自前でやる話ではない

安心材料もあります。Webブラウザや大手のクラウドサービスは、すでに耐量子暗号を取り入れ始めています。大手の配信事業者の集計では、人が見るWebの暗号化通信のおよそ7割で、すでに耐量子暗号を使った鍵のやりとりが行われています(2026年10月時点)。

中小企業が暗号の仕組みを自分で入れ替える必要は、基本的にありません。英国の国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)も、一般的なブラウザやOS、スマートフォンなどのモバイル端末を中心に使う中小企業では、ベンダーの更新に合わせて移行は滑らかに進むはずだとしています。ただし、特注のソフトや専門的なソフトを使っている場合は別です。その場合は、対応した更新や置き換えを探して、大企業と同じ時間軸で進める必要がある、とも書いています。製造業の設備や検査装置に組み込まれたソフトは、こちらに近いと考えておくのが安全です。

中小企業がやるべきことは、別にあります。守りたい情報が、どこにあって、どれだけの期間守る必要があるのかを、自社で知っておくことです。それが分かっていれば、ベンダーや取引先に「ここは大丈夫か」と聞けます。分かっていなければ、聞く相手も決まりません。

情報資産の洗い出しの例、3つの列だけの表

完璧な台帳はいりません。先のNCSCも、最初の洗い出しは「正式な資産台帳を意図したものではない」としています。一つひとつを細かく記録するより、それぞれのシステムの性質をつかむことが大事だ、という考え方です。まずは次の3つの列だけで、思いつく情報から表にしてみてください。部品メーカーを想定した例です。

情報どこにあるあと何年守るか
取引先から預かった図面ファイルサーバ・メール添付・CADのPC製品が現役の間(10〜15年)
自社の加工条件・ノウハウ現場のPC・紙・ベテランの頭の中20年以上
顧客・仕入先の台帳販売管理システム・Excel5〜10年
従業員の個人情報給与のクラウド・紙の書類持っている間(退職後も、法令や社内規程の保存期限まで)
設備の制御プログラム装置の本体・保守業者のPC設備を使い続ける間(15〜20年)
見積・単価メール・Excel1〜2年

書いてみると、たいてい2つのことに気づきます。1つは、同じ情報が何か所にもあること。図面がサーバにもメールにも個人のPCにもある、という状態です。守る場所が増えるほど、漏れる経路も増えます。もう1つは、「あと何年」の答えが情報ごとにまるで違うこと。これが、次の優先順位の材料になります。

手が回らないときは「3つの掛け算」で決める

表ができても、全部に手を打つ時間はありません。そこで、各行を次の3つで見ます。

  1. 長く守る。 あと何年守るかが長い
  2. 漏れたら痛い。 取引停止・損害賠償・信用の失墜につながる
  3. 替えにくい。 仕組みや機器を後から入れ替えにくい(設備・装置・組込み機器など)

3つがそろう行から手を付けます。1つしか当てはまらない行は、後回しにすると決めてもかまいません。ただし、漏れたときの影響が特に大きい行や、法令・契約で守り方が決まっている行は、1つだけでも後回しにしません。後回しにした行は、理由と見直す時期を表に書いておけば、それは「放置」ではなく「判断」です。

特に見落としやすいのが3つ目です。工場の設備や装置は、15年、20年と使います。今日買った装置は、2035年にもまだ現役です。その間に暗号やソフトを更新できない作りだと、あとから打つ手がありません。

判断に迷ったら、簡単な足し算も使えます。

守る年数 + 仕組みの入れ替えにかかる年数 > 量子コンピュータが来るまでの年数 なら、今から準備が要る

たとえば、10年守る図面を扱う仕組みの入れ替えに3年かかるなら、合計13年。仮に量子コンピュータが2035年ごろに来るとすると、今から数えて9年です。すでに足りていません(2035年は、日本・米国・英国などが移行の目標に置いている年でもあります)。一方、1〜2年で古くなる見積単価なら、慌てる必要はありません。

今日からできる3つ

  1. 3列の表を1枚作る。全部を埋めなくていい。「どこにある」は、思いつく場所をすべて書く
  2. 替えにくいものを買うときに1つ聞く。設備・複合機・ネットワーク機器を選ぶとき、「暗号やソフトを後から更新できますか」と聞く。これだけで、10年後に打てる手が残ります。米国のCISA・NSA・NISTの共同資料も、使っている暗号の棚卸しと並べて、製品のベンダーと話し合い、どこに量子コンピュータに弱い暗号が残っているかを確かめることを勧めています
  3. 年に1回、表を見直す。情報の鮮度は変わります。製品の生産が終われば図面の守る年数は縮み、新しい取引が始まれば増えます

おわりに

この記事に書いた期限や数字は、来年には古くなっているかもしれません。量子コンピュータの見通しも、各国の方針も、毎年のように更新されます。

それでも、「何が・どこに・あと何年」の表は古くなりません。年に1回見直すほど、むしろ価値が上がります。耐量子暗号は、その表を作るのにちょうどいいきっかけです。

今回は、情報を守る期間の目線から洗い出しを見てみました。ただし、優先度を決める基準はこれだけではない点に注意してください。洗い出した表は、どのリスクを下げ、どれを受け入れるかを決めて手を打つ、リスクコントロールの出発点です。守る期間に、漏れたときの影響や狙われやすさも重ねて、守り方を決めていきましょう。

この表には、もう1つ使い道があります。生成AIに、どの情報なら渡してよいかを考える材料です。ただし、この表だけでは決められません。個人情報や契約で預かった秘密、使うサービスの規約や設定も確かめたうえで、守りを弱めてでも効率を取る場所を「決めて」選ぶ。その話は、また別の記事で書きます。

興味のある方へ、耐量子暗号のしくみ

本文では、しくみには触れませんでした。気になる方のために、ごく簡単に書いておきます。

いまの暗号が狙われる理由

インターネットの通信では、最初に相手と「鍵」をやりとりするときなどに、公開鍵暗号(RSAや楕円曲線暗号)を使っています。その安全性を支えているのは、「大きな数を素因数分解するのは難しい」といった数学の問題です。いまのコンピュータでは、解くのに途方もない時間がかかります。十分に大きな量子コンピュータは、この種の問題を現実的な時間で解けてしまうと考えられています。

一方、データそのものを暗号化する共通鍵暗号(AESなど)は、量子コンピュータの影響は限定的とされています。英国のNCSCも、128ビット以上の鍵を使うAESなどは引き続き使えるという立場です。なお、日本政府の中間とりまとめは、鍵の長さが128ビット相当の共通鍵暗号やハッシュ関数について、より強度の高い鍵の長さへの変更を検討する必要があるとしています。

解くのに必要な量子ビットの見積もりは、桁で減ってきた

いまの量子コンピュータが公開鍵暗号を解けないのは、誤りを起こしやすく、誤りを直しながら大量の量子ビットを長い時間動かせる段階に届いていないからです。それでも、必要な規模の見積もりは年々小さくなっています。2019年の見積もりでは、RSA-2048(いま広く使われている公開鍵暗号の一つ)を解くのに約2,000万量子ビットが必要とされていました。同じ装置の前提で見直した2025年の見積もりは、100万量子ビット未満です(計算時間は約8時間から1週間弱に延びます)。2026年2月には、別の誤り訂正の方式を使えば10万量子ビット未満で済む、という設計の提案も出ています。装置の側でも、2024年12月にGoogleが、量子ビットを増やすほど誤りが減る(誤り訂正が効く)ことを105量子ビットのチップで示しました。

耐量子暗号は「別の難問」に乗り換える

耐量子暗号は、量子コンピュータでも解くのが難しいと考えられている、別の数学の問題に基づいています。NISTが標準にした3つのうち、鍵のやりとり用(ML-KEM)と電子署名用(ML-DSA)は「格子」と呼ばれる問題に、もう1つの電子署名用(SLH-DSA)はハッシュ関数に基づいています。

耐量子暗号は、いまのふつうのコンピュータで動きます。ここが大事な点です。名前の似た「量子暗号(量子鍵配送)」は、情報を量子の状態に乗せて送る別の技術で、専用の装置が必要です。耐量子暗号は専用の装置がいらず、多くはソフトウェアの更新で入れ替えられます。だからこそ、本文で書いた「後から更新できるか」が大事になります。

いま「リスト」に載っている方式(2026年10月時点)

用途米国 NIST の標準日本 CRYPTREC 暗号リスト
鍵のやりとりML-KEM(FIPS 203・2024年8月確定)ML-KEM-768、ML-KEM-1024(2026年3月追加)
電子署名ML-DSA(FIPS 204)、SLH-DSA(FIPS 205)(いずれも2024年8月確定)まだ載っていない

このほか米国では、電子署名のFN-DSA(元の名前はFALCON)の標準化が進んでいます。鍵のやりとりでは、ML-KEMに万一のことがあったときの予備として、別の数学(誤り訂正符号)に基づくHQCが2025年3月に選ばれました。2027年に確定する予定です(2025年3月の発表時点)。日本のリストの同じ表には、共通鍵暗号やハッシュ関数も、鍵や出力の長いもの(AES-256、SHA-384など)が並んでいます。

いまは「組み合わせ」で移行中

いまのブラウザが使っている方式(X25519MLKEM768)は、従来の暗号と耐量子暗号を組み合わせたもの(ハイブリッド)です。両方を破らないと鍵が分からない作りにして、新しい暗号に万一の弱点が見つかったときにも備えています。

もっと詳しく知りたい方は、記事末の参考文献のうち、CRYPTRECの「暗号技術ガイドライン(耐量子計算機暗号)」(日本語・技術者向け)と、NISTの標準確定の発表(英語)から読むのがおすすめです。

参考文献

公開情報(2026年9月24日・10月11日・10月14日取得)。

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